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現代 五輪における選手マーケット論 今、選手に求められもの 【序章①】
たいそうな題名をつけてしまいましたが(笑)
五輪に関わるようになって、選手の頃から含めると20年
自分なりに、五輪を見つめてきました。
そして、今の五輪はビジネスと切っては切れない大会に変遷してきました。
そういった観点で、今の五輪と選手を見つめたときに
どうあるべきなのかなぁ、っと漠然と思ったときに、
「忘備録」的に(笑)、まとめておきたいと思い、書くことにしました。
2020年東京五輪があり、いろいろと「五輪」そのものに対しての
様々な議論がなされています。
そこで必ず出てくるのが「五輪の商業化」に対する議論です。
商業化することがスポーツにとって、是か非か、
あまりにも五輪が巨大になり過ぎて開催費の問題がクローズアップされたりしています。
そういった五輪の変遷の中で、あまりにも五輪自体が巨大化してしまい
開催や経済効果といった側面にばかりが、開催までの話題の主役となり
五輪の成功を一番握っているはずの選手が必ず置き去りにされて、議論がされます。
もちろん、開催費用がどうでも良い、と言いている訳ではありません。
インフラが整備されるのは開催地にとっては五輪の恩恵であり
選手にとっても設備が充実するのは、大きなことです。
ただ、費用が拡大しすぎて開催都市への負担が大きくなり
開催の是非を問うまでに発展するのは、残念な話です。
そもそもの五輪は開催規模が今ほど大きくはなかったので、
驚愕なインフラ投資が必要がなかったですし、
運営自体も「アマチュアイズム」に則っていたので、
開催自体が黒字を目指すという側面も持ち合わせていませんでした。
しかし、社会インフラが整うなどの利点があり、開催都市に名乗りをあげる
都市というのは多かったのです。
アマチュアイズムに則って開催されていた五輪では
参加できる選手の中身は、以下の3つに分けられると言ってよいでしょう
①経済的に余裕がある
②生活が苦しくても競技にすべてを捧げる
③スポンサーを見つけて、競技に参加することが出来る
④国のサポートを受ける
おそらく、プロスポーツに否定的だっただけに②の選手が圧倒的に多かったでしょう
次に多いのが④と言ってよいでしょう。
そういった背景の社会認識がされており
五輪の観る観衆の中には
「人生を競技に捧げている選手の美しさ(美徳)に感銘を受ける」
という部分が大きかったかもしれません。
実際に、私がリオ五輪後に「五輪報告会」をしたときに
「日本人は自費でお金がない中で、メダルを獲るから価値があると思っているんです。」(男性:40代)
に言われたことがあります。
ただ、プレーする選手にも生活があります。
五輪の商品は「清貧な選手が世界一を決める」
この「清貧」にある種の付加価値があったのかもしれませんが
「清貧」は選手としては、なんの価値もありません。
ただ、己の磨いてきた技や肉体の限界を、世界中の選手と競いたい
そこにこそ価値があります。
「清貧」という付加価値で観る人に感動してもらえるからもしれません。
もちろん、五輪で結果を出すことで、生活が保障される選手もいたかもしれません。
それは出るのも難しい大会で、しかもメダルを獲れる選手。
各種目で3名程度しか生まれないということなのです。
そこに将来的な発展を見いだすのは難しいと思います。
選手がトレーニング集中できる環境がある、社会主義国では国がサポートしていたため
アマチュアイズムを掲げていた五輪までは、
メダル獲得数は社会主義国が上位の多数を占める結果になりました。
国がスポンサーなのであれば、プロではない。という理屈が成り立ち
競技に対して資本力のある社会主義国の選手が活躍するという
不思議な現象が起きていました。
実際に、モントリオール五輪まではメダル獲得上位10か国の過半数は社会主義国家
※ボイコット国が多数あった、モスクワ・ロスは参考にせず
国とすれば自国の選手が活躍する「国威高揚」
ビジネスとすれば、世界をマーケットに、ナショナルブランドとしての認知
そうした思惑が、国が選手を強化し、ビジネスが選手をサポートするようになってきました。
商業五輪として成功したロス五輪から、その流れが加速して
一気に五輪が肥大化していったという背景があります。